まくなぎの歩行訓練のぼり坂

2022年12月免疫暴走で肺が燃え、いきなり在宅酸素になった。そのヨボヨボリハビリ日記。

まくなぎの歩行訓練のぼり坂 5月5日子供の日始動

2022年年末に免疫暴走で入院。コロナと年末で どこの病院からも診察を断られ、保健所に連絡してくれという病院の玄関の掲示に書いてある保健所の電話は100回かけても繋がらず、発熱外来といってもどこでどうするかわからず、発症してから10日以上たってからようやく保健所に繋がり、さらに1日置かれ状況をみて収容先の病院探すが、苦しかったら救急車を呼んでくださいとのことで、救急車を呼ぶことに。救急も繋がらず、よんどころ新宿の姉御さんに連絡したら新宿の病院のベットが空いていると知っている区議さんに調べてもらってくれた。その後救急に繋がり救急車が来ましたが、保健所と救急隊で収容先協議に1時間。ようやく救急隊が病院の空きがあるがそこで良いかと言ってきたのがその新宿の病院。死のコースから外れた瞬間だったと思う。

 

手遅れ状態で救急車で搬送された病院では、レントゲン、CTで診断して重症なのですぐに人工呼吸の病院に転院させると言われ、手続きが始まったがエクモを希望するかと聞かれ、そこまでしてもと断った。そうしたら恐らく他のコロナの患者さんにベットが優先されたのだろう、転院がなくなりそこで恐らく人工呼吸よりはるかにましだろうが地獄のような治療が始まった。この時は治すというより、どうせ死ぬのだからと堪えた。

 

年が明けてから新宿の姉御さんたちの激励や、差し入れ(年末年始で売店が空いておらず、下着類や水や、ティッシュなどの入院セット)もあり、新宿の子供の頃からお世話になっている皆さまの祈りもあり奇跡のように快方に向かいました。そうしたら病院から今度は新規コロナ患者のためにベットを空けてくれと年明けすぐに退院させられることに。しかし、それはいきなりの在宅酸素生活の始まりでした。

入院時に低酸素の状態が続いたのか、字が書けなくなったり、ろれつがまわらなくなったり。退院しても、立ち上がるだけで息があがり、階段も1段1段のぼる度に息を整え、話をすることすら息苦しくなる状態。ALS(体が動かなくなる病気)の患者さんの

気持ちがわかる気がしました。動くことも話すことも自由にできない。

水やりをされなかったプランターの草木は枯れていて、かなり丈夫なはずの、いただいたオリヅルランも全滅した。それでも枯草や枯れ木の撤去すらできない。

突然、余生から余命になって世の中のことがどうでもよくなり、仕事もお金も世間様もどうでもよく、入院した病院からのサマリーやレントゲンから、このまま肺機能が再生することはなく在宅酸素を維持するしかないとの余命の維持だけの医者から、

新宿の姉御さんに生きるのだとの激励もあり、知っている病院のMSWに話をしたらそこのドクターが往診してくれ、サマリーもレントゲンも知らない段階なのに明るい声で一通りの診察のあと「必ず良くなるから!」の一言でした。そこから酸素なしの普通の生活を目指す治療方針に変更され、その日から生きることをはじめました。

治療を受けながら日々ネットスーパーなどで食いつなぎ、2か月後の3月から歩行訓練を始めました。

携帯ショップで新しくコミュニケーション用の携帯を購入、遅ればせながら生まれて初めてのlineを2023年3月20日に開始、(今までセキュリティの関係で頑なに拒否していました)

その後画面を見やすくするためipad mini6を購入して4月23日にはライングループ参加させていただき、そして5月5日子供の日にこのブログを開始しました。

何事も生きている間にできることをやってみよう!

(一般向けブログ)